大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

最高裁判所第二小法廷 昭和25年(オ)238号 判決

上告人(原告) 全逓信労働組合 外七名

被上告人(被告) 内閣

主文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人等の負担とする。

理由

上告代理人布施辰治、上村進、神道寛次、責柳盛雄、福田力之助、高木右門、蓬田武、小沢茂、上山重徳、谷村直雄、藤井英男、岡林辰雄、牧野芳夫、森長英三郎の上告理由第二点、第三点、第四点及び上告代理人高木右門の第一点、第二点、第三点について

本訴は上告人において昭和二三年政令第二〇一号「昭和二三年七月二二日附内閣総理大臣宛連合国最高司令官書簡に基く臨時措置に関する政令」は形式的にも実質的にも憲法に違反するものであつてその制定行為によつて上告人等の憲法上保障せられている団結権、団体交渉権及び団体行動を行う権利の如き基本的人権が侵害せられたと主張した政令制定行為を以て行政庁の違法なる処分として行政事件訴訟特例法に基きその取消を求めるものであることは一審以来の上告人等の主張によつて明らかである。

ところが右政令は昭和二〇年勅令第五四二号「ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件」に基いて制定せられたものであつて上告人等のみを対象とするものではなく同令施行当時のすべての公務員及び同令施行後公務員となる者の労働関係を規律する一般的抽象的な法規であることは右政令自体からみて明白である。そしてわが裁判所が現行の制度上与えられているのは司法権を行う権限であり司法権が発動するためには具体的な争訟事件が提起されることを必要とするのである。従つてわが裁判所は具体的な争訟事件が提起されないのに抽象的に法律命令等の合憲性を判断する権限を有するものでないことは当裁判所の判例とするところである(昭和二七年(マ)第二三号同年一〇月八日大法廷判決)本件において上告人等は前記の如く本件政令により上告人等の憲法上の権利が侵害せられたとは主張しているが上告人等の請求はその具体的権利関係の紛争に関するものではなく単に右政令を制定した行為の取消を求めるものに過ぎないのであるから本訴訟は不適法として却下すべきでありこれと同趣旨の原判決は正当で論旨いずれも理由がない。

前記上告代理人布施辰治外十三名の上告理由第一点について

しかし「国の利害に関係のある訴訟についての法務総裁の権限等に関する法律」六条二項によると法務総裁は行政庁を当事者とする訴訟について必要があると認めるときは所部の職員でその指定するものにその訴訟を行わせることができるのである。そして本件のように政令の合憲性が争われかつ裁判権の有無が訴訟の核心をなしている場合に法務総裁がその必要を認めて所部の職員たる法務府事務官を被上告人の代理人に指定して本件訴訟を行わせたことは少しも違法ではなく同一趣旨で上告人等のこの点に関する主張を排斥した原判決は正当で論旨は理由がない。

よつて民訴四〇一条八九条九五条により主文のとおり判決する。

この判決は裁判官全員一致の意見によるものである。

(裁判官 霜山精一 栗山茂 小谷勝重 藤田八郎 谷村唯一郎)

弁護人布施辰治、同上村進、同神道寛次、同責柳盛雄、同福田力之助、同高木右門、同蓬田武、同小沢茂、同上山重徳、同谷村直雄、同藤井英男、同岡村辰雄、同牧野芳夫、同森長英三郎の上告趣意

第一点 上告人から提出した第一審判決の不当指摘の準備書面第一点

『原判決は、被告の指定代理人について控訴人から、

「被告訴訟代理人として、法務府職員が指定せられているのは、違法且不当である。即ち被告内閣は行政庁であるから『国の利害に関係ある訴訟についての法務総裁の権限に関する法律』第五条の規定によつて、被告指定代理人は被告内閣がその庁員の中から之を指定するのを原則とし法務総裁がその所部の職員から之を指定するのは、同法第六条第二項に定める通り、法務総裁が『必要あると認めるとき』に限られている。本件訴訟では被告代理人に法務職員を指定する必要性がないから、その指定は違法である。のみならず法務総裁の代理人指定権が濫用されて、裁判官を属僚乃至友人扱いにする法務職員が、被告訴訟代理人に指定されていることは、裁判干渉または情実裁判の意図を疑わしめるから不当である。」と不法不当の代理人指定の無効が主張され、被控訴人内閣が、

「『国の利害に関係ある訴訟についての法務総裁の権限に関する法律』第六条第二項に『必要あると認めるとき』と云うのは、法務総裁が主観的に必要を認めれば足る趣旨であつて、いわゆる自由裁量に属するものである。かりに訴訟代理人の指定についてその客観的必要性を要件とするとしても、本訴は裁判権の有無という純粋の法律問題がその核心をなすものであつて、法務府は政府に於ける法務を統轄し、法律問題に関する政府の最高顧問的立場にあるのみならず、政令案の審議立案に関する事項を司る権限を有し、前記政令二〇一号についてもその審議立案に関与した関係上、政令の合憲性が争われている本件について、法務総裁の所部の職員をして訴訟を実施させる客観的必要性がある。であるから法務府職員が被告代理人に指定せられていることは何等違憲ではない。」と答弁したことを摘示しながらこの争点に対する当否を判断していない。

この争点は原審の訴訟進行を基礎づける先決問題で、被控訴人内閣の代理人指定が法務総裁の認定次第、訴訟当事者の内閣の意見も事情も無視し、司法官僚の独善と驕慢を以て出しやばり、裁判所を法務府の出店の如く、又裁判官をいわゆる本省の属僚視する代理人指定を不法不当とする控訴人の主張は、民主憲法が司法権の独立を保証した権威を以て、原審の判断すべき事項である。にも拘らずこの重要な争点の判断を回避した原判決は卑怯である』という主張につき、法務総裁は、内閣の法律顧問で、本件が裁判所の裁判権に属するや、否やということについて検討する適当な部署の担当機関であり、法務総裁はそういう立場から本件の指定代理人を正当だと説明しているが、こういう場合にも被告官庁からの紹介によつて法務総裁がこの必要を認定することは、格別被告官庁から何らの申出もないのに漫然法務総裁がのさばり出したかたちで、代理人を指定する横取り的態度は、決して公正な法の適用とは考えられない。上告人は、この点について最高裁判所が最も良い法令運営の慣行をつくられるために、この点の不当を指摘する。

第二点

原判決は上告人らの取消しを求めた係争の政令二〇一号は控訴人ら公務員だけを対象とするものでなく、「現在及び将来の不特定多数公務員に対し、新たな義務を課するものとして制定された」ものだと云つている。だが上告人らは係争の政令二〇一号制定当時、上告人ら公務員が憲法で保証された現存の基本的人権を侵害した行政処分だということを主張しておるので、政令二〇一号が将来の公務員を対象としているという適用や効力を、直面の問題としているのではない。従つて上告人らの主張の通り、政令二〇一号制定発布の行政処分が取消された結果、将来の公務員を対象とする法令効果を失却しても、それは判決効果の間接波及で本訴の適否を決定する直面の争点とすべき問題ではない。にも拘らず、原判決が、恰も上告人らが政令二〇一号の効力を争うもので、行政処分の取消しを主張するという本旨を無視して、之を却下したのは、上告人らの本訴請求原因を正確に理解しないか、故意に曲解した不当判決である。

第三点

原判決は、係争政令二〇一号を制定発布した被控訴人の行為が行政処分であることを、被控訴人も原判決も之を認めながら、政令二〇一号制定発布の行政処分はいわゆる法規命令を内容とする抽象的なもので、行政事件訴訟特例法の行政処分に属さないと主張し、ここでもその理由を「政令二〇一号という行政処分の対象が控訴人らばかりでなく、将来の不特定多数の公務員をも対象としている」からだと説明している。けれども政令二〇一号の制定発布は、上告人全逓ら官公庁六大労組五二〇〇円ベースの労働争議を中央労働委員会に提訴した、提訴解消封殺のためなされた行政処分だというのが、上告人らの主張で、政令二〇一号が抽象的な法規命令で制定当時の公務員以外の不特定多数将来の公務員を対象とするか否かを問題として提起したものではなく従つてそういう請求の原因事実も上告人らは主張していない。従つて、この点に関する原判決も全然被告人らの主張に関係のない詭弁で、又実際二〇一号を上告人らから争議権を奪つたり処罰した以外の、不特定多数の公務員を対象として適用した事例もないのだから、こういう詭弁的屁理窟を弄んで上告人らの訴を却下することはできない筈である。仮にそういう屁理窟が許されるにしても、既に政令二〇一号によつてその権利を毀損された上告人らがその被害者として権利を毀損した政令二〇一号を制定発布した被告に行政処分の取消を求めることは、当然許さるべき上告人らの憲法に保障された基本的人権であつて、当然その排除を訴求することも又、憲法の保証するところであるにも拘らず、原判決は、この点については、正当の理由を示さないで、上告人らの請求を却下したのは、理由不備の不当を免れない。

第四点

『憲法第七十六条の裁判権は、三権分立のいわゆる司法権とその概念を同じくすることは、敢て法理や術語の解釈と論証を要しないと思うから、ここに之をくり返さず結論的な原判決の不法不当を箇条的に指摘する。

(一) 具体的な事件に係争の政令二〇一号が具体的に運用された場合にのみ、裁判権があるという原判決は、(イ)政令二〇一号を合憲有効なものとして適用されることを前提とし、三審制度を無視し、裁判所の公正態度を無視した不合理、(ロ)具体的に適用された事件に対する違憲失効の第一審に於ける闘争機会を奪つて、二審からの闘争を認める不合理に陥る。

(二) 原判決は

「司法権の作用は、具体的事実について訴訟の手続をへて公権的な判断によつて、適用せらるべき具体的な法を確定して、之を宣言することであつて、三権分立制の下に於ては、司法権の作用は伝統的にこのような意味に解せられている。

従つて裁判所の権限は、具体的な権利又は法律関係の存否について、関係当事者の間に争いのあることが必要である。」

と説明しているが、司法権も裁判権も再批判の理念を基盤とした国家制度である。と同時に批判の対立(即ち意見の対立した争点)がある限り、司法権も裁判権も必ずこの機能を発揮して原告被告の意見対立を再批判するものだから、このような司法権や裁判権を否定するが如き不合理に陥る原判決の結論は、極めて不当である。それは被告が係争の政令二〇一号の合憲有効を主張し、原告がその違憲失効を主張する対立を、具体的な争議事件とし、憲法の解釈と運用によつて、その再批判を裁判所に求めたものが、本訴だということは、原審に提出した原告の釈明要求書と被告の答弁書を併せよめば甚だ明白で、本訴が裁判権の範囲に属しないという結論の出てくる筈がないからである。

(三) 原判決は

「憲法第八十一条に定める裁判所の法令審査権は、裁判所がある法令が違憲であると判断した場合に、その法令を無効として具体的事実に適用しないということによつて行われるに止る。この点に関し、同条の解釈として裁判所は法令の合憲性や効力そのものを、独立の問題として、裁判する権限を有するとの見解もあり得ようが、かかる権限は司法権の本質と相容れないものであり、裁判所がかかる特別な権限を与えられたものと解するためには、憲法上その趣旨が明白にせられていることを要するものと考えられるから、右の見解には従い難い。

と説明しているけれども「裁判所が法令の合憲違憲を独立の問題として裁判する権限」が、司法権の本質と相容れないという原判決の理由説示は、司法権の権威を自ら放棄して、立法権、行政権に屈伏するものである。のみならず控訴人らは、憲法第七十六条と共に同八十一条の法令審査権を裁判所の権限とし、司法権を三権分立の優位に保証したのは、原判決に云う「憲法上その趣旨を明白にした」ものだと主張しているのである。又裁判所が係争法令の無効を判決した場合、その法律を無効とする判決の効果が当事者間に及ぶというのは、当然の規範力で、原判決がこの規範力を限定したことは、政令二〇一号が将来の不特定多数公務員に関係があるといつて、本訴を却下した不当の詭弁をバクロしたものである。』

原判決は上告人が原審に提出した右の論点について何らの正当な判断を与えないで、漫然その請求を棄却したのは、これ又理由不備の失当を免れないものと思料する。

上告人ら代理人高木右門の上告理由

第一点

原判決はその理由で、憲法第七十六条にいわゆる司法権は具体的事実について具体的な法を確定し宣告する作用であるとし、裁判所法第三条の規定を援用して、右趣意を明らかにしたものと解し、かつ憲法第八十一条の法令審査権も具体的事件に対する裁判において行使せられるにすぎない旨断定した上、本件請求は昭和二十三年政令第二百一号という行政庁の法令制定行為の取消を求めるものであるから、一般的抽象的な法規を形成する法令の「効力についての争い自体を、独立の問題として、その審判を求めるに外ならない」で、上告人らの「具体的な権利の存否を争うものでないから、仮りに、控訴人らの主張するように、右政令の制定が特別の意図に基くものであり、またその制定によつて直接に多数の公務員が重大な不利益を被つた事実があつたとしても、裁判所の権限が前記説明のとおりである以上、……本訴は不適法といわなければならない」と判示した。

しかしながら、原判決が本件事案を一般的抽象的な法令の効力自体の問題とし、憲法第七十六条にいわゆる司法権の作用外にあると解するのは、法の本質および同条にいわゆる司法権の意義を曲解し、ひいては憲法第三十二条に違反した議論であり、破毀をまぬがれない。

左にその理由をあげる。

(1) 近代法治国において、法が法たる所以のものは、端的にいつて、人民の利益を万全に擁護する点にある。このことは少くともフランスの人権宣言以来確立され、一貫された法治国理念の指導原則である。三権分立の要請も究極的にはこの原則を維持するための分割担当の制度にほかならない。すなわち国権を立法権、司法権および行政権と分ち、おのおのその作用の仕方に固有の機関と形式をもたせているのは、一個の国権を三つの作用形式に組立てることによつて互にその専擅を制肘せしめることによつて人民の利益が理由なく毀損せられないように考案せられたものといえよう。それゆえに立法、司法、行政の三権はそれぞれ国権の一作用として、いずれもその機能的立場から人民の利益に奉仕することでなければならない。そうして立法、司法、行政の三権分立の意義は国権という同一権力の機能的構造による区別であり、作用的に異つた領域として構成されているところにあるのだから、かりにそれぞれの固有の領域の干犯は許さないとしても、それを固執するときは実質上人民の利益を侵害する場合、人民の利益を擁護するように修正されるという要請が生ずるのである。これを司法権の側からいえば新憲法下行政事件について普通裁判所が裁判権を独占し、また労働委員会や人事院の公平委員会のように、それ自体純粋に行政機関でありながら実体的真実や公平の理念に沿うために準司法的手続の構造をとつているのであつて、これらはいづれも民主的社会において人民の利益を高揚するための三権分立の修正方式の態様とみるべきなのである。

したがつて憲法第七十六条にいわゆる司法権の解釈についても人民の利益を擁護するという根本的立前に立つてなされなければならないのであつて、原判決のように従来の形式的な三権分立論を固定的に観察する立場は極力排除されなければならないのである。要するに原判決は近代法治国における法の在り方を洞察しないために、人民の利益擁護を目的とする三権分立制を形式的固定的に考え、その結果本来の目的である人民の利益を没却するにいたつたものというのほかない。

(2) 右のことは、また実定法的にもこれを理由づけることができると考える。

アメリ力憲法においては「裁判権は事件および争訟」―Cases and Contraversiesについて行使せられる旨明文がある。それゆえ、裁判権は具体的事件についてのみ存するという制限的解釈が一般的になされているようである。そして、この場合においても違憲立法の判決の効力については各種の説が存するが、実際的取扱いとしては具体的事件について違憲立法判決があれば、当該法律はその判決で無効を確認されたものとする慣行が確立されている現状にある。このことは租税法についての慣行がとくに雄弁に物語つている。もし、原判決のような見解を貫徹するとすれば、具体的事件に関する違憲立法判決の効力は当該事件についてのみ相対的に生ずると解せざるをえないのである。アメリカの憲法のように裁判権は具体的事件について存する旨の明文のある場合においてもその効力については慣行上一般的効力を有するものと認められているのであつて、このことは結局法は人民の利益に奉仕するという法の本質的性格に対する認識に由来するものと考える。

ところで、わが憲法第三十二条によれば、「何人も裁判所において裁判を受ける権利を奪われない」と規定しさらに第七十六条によれば、「すべて司法権は、最高裁判所及び法律の定めるところにより設置する下級裁判所に属する。」と規定する。

この二つの条文を綜合して考えると、人民の利益の司法的救済はすべて裁判所の任務であり、裁判所は何人のためにもその利益の司法的救済を達成するために万遺憾なきを期さなければならないという憲法上の要請が確認されるのである。本件では本件政令の公布施行により上告人らの憲法第二十八条所定のいわゆる労働基本権が侵害ないし剥奪され、ひいてはその生存権を危殆におとしいれられたのである。特に団体交渉権を奪い中央労働委員会への提訴を無に帰せしめ、また労働協約を無視して上告人等官公労働者の既得の権利を否認することにより、直接かつ反射的に上告人らの利益を侵害したのである。いいかえれば、いわゆる具体的事件として解雇無効を訴求し、あるいは本件政令違反被告事件について無罪を主張することを以つてしては救済することのできない重大な労働基本権ないし生活権の侵害を、本件政令が存するという一事によつて与えているのである。それは行政権の担当者である被上告人が行政機関としてその下位に立つ諸官庁や労働委員会を本件政令によつて拘束しているからである。このような人民の利益もまた司法的救済の対象とみなければならないことは憲法第三十二条および第七十六条第一項の規定の趣旨からして当然のことといわなければならない。そうだとすれば、このような人民の利益(いわゆる具体的事件の審判によつて救われない違憲法令の存在による直接かつ反射的にして積極的な不利益)の救済は違憲法令そのものが裁判所において無効を宣言せられあるいはその制定行為が取消されなければ達せられないことは火をみるより明らかなことである。

アメリカにおいてもニユーヨーク州ほか数州の州憲法では違憲立法について宣言判決―Declaratory Judgementの制度が認められている事実について深い考慮がなされられなければならないであろう。

わが国憲法においては、司法権の作用内容については何らこれを限定する規定がおかれていないのであるから、その意義解釈については、すべての人民の利益の司法的救済を全うするという近代法治国の法理念から出発し、これを満足せしめるように努力することが、本来の民主主義的要請といわなければならない。在来の固定化した、それ故に本来の目的を見失つた三権分立観を前提として司法権の意味内容を誤解した原判決は、結局の本質の重要な面を見落し、ひいては憲法第三十二条および第七十六条第一項を正解しない違憲判決というべきである。

第二点

原判決は憲法第八十一条の解釈を誤つた違法がある。

原判決は前述のように裁判所法第三条の「裁判所は……一切の法律上の争訟を裁判」する権限を有する旨の規定を援用し、そこにいう法律上の争訟とはいわゆる具体的事件に該当すると解し、憲法第八十一条違憲立法審査権もまた具体的事件について存する、いいかえれば裁判所の違憲立法の判断は判決の主文に現われることなく、単に判決のいわゆるバイター・デイフツムとして示されるにすぎないものとしている。この見解は次の二点で誤つている。

(1) 裁判所法第三条の「法律上の争訟」を単に具体的事件に限定するという根拠は同条の文意からしてそのまま出てくるという簡単なものでない。争訟とは一定の訴訟手続の対象とされた法律事実と解することができ、その法律事実が立法行為そのものなりや、はたまた、法令の執行の結果生じた具体的法律関係に関するものなりやは問わないのである。このことは上述のアメリカ憲法の明文と比較対照することによつてもうかがい知ることができるとおもうのである。

しかも同法は憲法の下位に立つ法律であつて、その解釈自体を憲法の条文そのものの解釈に援用することは本末顛倒のそしりをまぬかれない。私は憲法の解釈論としては第一点にのべた考え方が正しいと考えるので、裁判所法第三条の文意もそれに適合するように解しなければならないとおもう。

(2) 憲法第八十一条は、「最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である。」と規定し、裁判所に違憲立法審査権を与えている。そしてこの規定は憲法第九十八条第一項と表裏一体をなしていることは言をまたない。すなわち憲法第九十八条第一項は違憲立法はその限りにおいてすべて無効であることを宣明にし、同法第八十一条は違憲立法を審査決定する権限が裁判所にあることを明定しているのである。立法機関の立法や行政機関の立法やまた一切の処分が「憲法に適合するかしないかを決定する権限という特別の表現形式を憲法第八十一条が採用している法意は、裁判所が司法権の作用として違憲立法の効力そのものを直接確定す権限を有する趣旨であることは憲法第九十八条第一項との関連において明らかである。憲法第八十一条は前述のいわゆる宣言的判決を認めたものと解すべきものと信ずる(佐々木惣一日本国憲法原論参照)。

かりに前記裁判所法第三条第一項の「争訟」がいわゆる具体的事件と解するとしても、憲法第八十一条の違憲立法審査権は、同条に、「日本国憲法に特別の定ある場合」に属し、少くとも最高裁判所がいわゆる憲法裁判所としての権限を有するものとみて、上下両院の統一的解釈に矛盾肯反を生ずることはないのである。

論者あるいはいうであろう。新憲法は明治憲法に規定する改正手続により改正されたものであり、かつ明治憲法においては、裁判所は違憲立法審査権を有しなかつたのであるから、新憲法で第八十一条の規定を置いたのは単に裁判所に違憲立法審査権を与えたのに止まり、とくに抽象的法規の効力を一般的に決定するまでの権限を与えたものではないと。しかしながら、新憲法は形式上明治憲法の改正手続としてなされたことは間違いないが、実質上その間に結付くものがない。その指導原理は全く異つている。新憲法の指導原理は民主主義を中心観念とする。したがつて立法、司法、行政の三権はいずれも民主主義を最高理念として貫徹されなければならない。民主主義を自分のものとして身につけたものといえない現在のわが国においては、民主主義の基本をなす人民の利益、すなわち人民の基本的人権の擁護こそが先決必須の問題である。このことは憲法第九十七条が基本的人権に関する規定をわが憲法上の最高法規である旨規定するところからして容易に推認することができる。そうして本件事案は本件政令の制定行為の取消がないかぎり上告人らの基本的人権の侵害を除去ないし回復すことのできない底のものである。本件事案に対する唯一の救済の道が司法権に委ねられている窮通一路の際、これを司法権の対象でないとする解釈をとることは民主主義の原理に反し、また憲法第八十一条の所期するところとは考えられないのである。

(3) さらに憲法第八十一条の解釈論として同条の違憲立法審査権は法律についてはその制定権者である国会が「国権の最高機関であり、国の唯一の立法機関」であるからその立法の無効ないし取消が許されないとの立場をとる余地もありえよう。しかしこの立場をとるとしても、本件政令は少くとも司法権と対等の地位にある行政権を行使する内閣の行政立法である。したがつて憲法第八十一条は裁判所は違憲行政立法に対する審査においては内閣に対して優位の地位にあることを立言したものというべく、直接その取消ないし無効を確定することができる筋合でなければならない。

これを要するに原判決は結局憲法第八十一条に違反し破毀をまぬがれない。

第三点

原判決は事実を誤認し、ひいては法の解釈を誤つたものである。次に諸点をのべる。

(1) 本件政令はいわゆる全官公労組の中央労働委員会に対する正当な提訴に対し中央労働委員会の調停を打切らせ、また上告人らの正当な団体交渉権を剥奪し、既得の労働協約を蹂躙破壊して上告人らの既存の利益を剥奪する目的をもつて、被上告人がことさらにいわゆるマツクアーサー元帥の書簡を曲解、悪用し、かつ一見して明らかな憲法違反を犯してまで制定した政令である。それは被上告人の行政立法権の濫用である。そのために上告人らは直接かつ反射的に重大な不利益を蒙り、かつ現に蒙りつつあることは第一審以来上告人が準備書面その他において繰返し主張してきたところである。したがつてこれらの不利益の排除は本件政令制定行為の取消と不可分的一体をなすものである。したがつて、それは原判決にいう、いわゆる具体的事件ともいえるのである。しかるに原審はこの主張を判断しないかあるいは誤解して本件訴求を不適法として却下したのは法の解釈を誤つたものである。

(2) さらに、上告人は本件において本件政令が行政庁である被上告人の政令制定という一個の行政処分それ自体の取消を訴求しているのである。したがつて本件事案は、同様原判決にいわゆる具体的事件と解するに差支えない。この点で原判決は(1)と同じような誤りを犯している。

(3) 原判決は現在および将来の不特定多数の人民を規律するものは、たとえ行政行為に属するものであつても、それは抽象的法規を定めるものであるから、その制定行為の取消は結局法令の効力に関するものに帰し、いわゆる具体的事件ではない旨判示している。しかしこの議論を進めると、たとえば一警察官庁が一定の道路に通行止めの処分をなした場合、たとえそれが違法処分であつたとしても、それによつて不当に不利益を蒙る者は結局その処分の撤回ないし取消を裁判所に訴求しえないということになろう。何となれば右の通行止めの処分は現在および将来の不特定多数の人民を対象とする禁止命令であるからである。このような違法処分によつて不利益をうける者は何人といえども裁判所にその司法的救済を訴求しうることは疑いないところと考える。もしそうだとすれば原判決のこの点に関する判断は明らかに誤りである。しかしてこの点に関しても上告人は第一審以来主張してきたのである。

しかるに原判決はこの主張に対する判断を逸脱している。

以上の諸点からして原判決を破毀せられんことを。

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例